おさるの実験室

人生は実験だ

野菜の、あの「うまい」って感じは何なんだろう?(2 of 3)

前回までのサマリー

野菜がうまいというあの感じは何なのか、大いに疑問であるのである。都会生まれ都会育ちで、自然とか畑とかに縁がなかった僕が、世界観が変わるほどビックリしたのは京都の郊外の畑のトマトだった。

 

トマトはトマトでおいしかった。あれ以来、あれほどのトマトは、ない。思い出補正が入っているとしても。トマトの話はトマトの話として、野菜のおいしさの共通項的なことは大体同じではないかと思うんだ。

 

繰り返しになるけど、要は、収穫された瞬間が一番おいしくて、刻一刻と味が損なわれていくということ。農業をやっている友だちなんかの話を聞くと面白くって、いつ収穫すると野菜のおいしさが続くか、ってのがあるんですってね。具体的にいつなのか忘れちゃって、この辺りが自分としても残念なんだけど、確か夕方ではなくて、朝一番に獲るとうまいという話だったかと。

 

なんか理屈もあったんだけど、すっかり忘れてしまった。野菜の生命力が一番高まっているときに収穫すると、その生命力が維持される的な話だったかとざっくり記憶。いい加減だなあ。

 

聞いたその話はいい加減なんだけど、生命力って大切な気がするわけ。野菜にとって。例えば去年からベランダのプランターで九条ネギを植えていて。ネギにはざっくり大きくわけて「葉ネギ」と「白ネギ」があって、白い茎を食べるのが白ネギ、青い葉を食べるのが葉ネギ。関東では葉ネギが育ちにくくて、土を盛り上げて茎を覆うので白ネギが育つのだと、辻留の辻嘉一さんが著書の中で何度も書いておられたけれども。

 

京都の人たちは葉ネギが大好きで、やっぱり九条ネギがないと話が始まらないぐらい好きなわけ。薬味にも使うし、うどんの具(薬味じゃなくて)なんかにもどしどし使うわけ。九条ネギがないと始まらない料理ってなんだろうなあ。ラーメンの上なんかにもたっぷり乗っていますわね。来来亭みたいなメジャーなところでもネギは九条ネギだし、「ますたに」や「ほそかわ」なんかでもネギは九条ネギですわ。

 

薬味じゃなくて料理として九条ネギじゃないと成り立たないのって何だろうなあ。いっぱいある(はずだ)けど思い出せないのが残念。産直市場で九条ネギの束を買ってきました。何に使うのか。ああ、鶏肉をオイスターソースで炒めて、野菜と絡めるなら九条ネギですわ。九条ネギをざく切りにして、そのほか人参とかセロリとか玉ねぎとかにんにくとか冷蔵庫に眠っている野菜を掘り起こしてザクっと切り、鉄鍋に敷き詰めてローストし、こんがりと焼けた頃にトマト缶のトマトを放り込んでくつくつと煮詰めると最高のトマトソースができあがる。こういうときにも九条ネギがほしいなあ。

 

斯様に京都の人々が愛してやまない九条ネギを去年からベランダのプランターで育ててみた。秋になってホームセンターに行くと(産直市場でもいいんだけど)九条ネギの苗が売っていて、これをプランターにざくざくと突き刺しておくと、あーら不思議、九条ネギが次々と育ってくる。どの部分を摘むかというのは決まりがあるわけだけど、それさえ間違えなければ、摘んでも摘んでもネギが生えてくる。

 

昨シーズンはついにほとんど他所で九条ネギを買わなかったんじゃないかというぐらいの勢いで次々生えてくる。しかもそれが美味しいの。摘んだらなかからとろーりと、液体、あれはなんなんだろうね、とろりとした液体があふれていて、まな板で刻んだらべちょべちょになるぐらいの瑞々しい九条ネギ。

 

生命力のピークをそのまま食卓に持ち込める幸せったら。ベランダのプランターで育てるなら九条ネギが超オススメなんだけれど。話を戻すと、その、九条ネギの、あるいは野菜の「うまい」って感じは、一体何なのかというのがよくわからないの。

 

<続く>