おさるの実験室

人生は実験だ

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか?(5 of 5)

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか。そのメカニズムは、1)オモロクなければならぬという切迫感 2)オモロサを再現可能にするシステム的な担保、では。24が開始した2001年ごろ、映画界は超逆風の時代。映画の先行きが見えないなか、テレビドラマシリーズにリソースが集まり「なんとかオモロクなければ」と切迫していた時だった。

 

映画の先行きが見えず、テレビドラマシリーズに気合が入っていった(精神面だけじゃなくて、人もお金も)2000年ごろ。映像界には、これでうまく行かなければどうするねんという危機感もあったのではないかと思う。そういう危機感が露骨なあたりが北米の映画界の健全なところだと言えるのかもしれないですね。

 

日本の映像界……のことはあまりよくわからないので述べない方が良い気がするけど、ふわっと見ている限りだと、そこまで切迫している感じはしなかったなあ。予算がつかなくて「困っている」感はあったけど、あの手この手で立地を変えてでもなんとか切り抜けようという知恵が生まれるほどの危機感はなかったのではないかと思う。勝手な感想ですが。

 

切迫感だけでドラマシリーズが面白くなって人気が出るほど簡単じゃない。製作面(シナリオ・演技・映像編集)、マーケティング面などいろいろな切り口があると思うが、製作面に絞る。映像編集については前回も少し述べた。ステディカムを使って、360度をうまく使う映像はあの頃まだ新しかった。最近改めて24のシーズン1を見直している。今見ても、気合の入ったカメラワークだなと思う。アイディアに満ち溢れている。

 

特にシナリオ面が、観ている当時から謎で、きっと秘伝のソースがあるに違いないと睨んでいた。当時、といってもリアルタイムでは観ていないので、今から10年ぐらい前かねえ、シリーズを一通り観終わったときの分析は「シナリオは常に3つの論点で進んでいる」だった。

 

例えばあるときは「①大統領の暗殺 ②妻と娘の誘拐 ③捜査官の独自行動」で進んいるとして、「①大統領の暗殺」が解決すると、速やかに「①大統領の家族内のいざこざ ②妻と娘の誘拐 ③捜査官の独自行動」に移る。そして「②妻と娘の誘拐 ③捜査官の独自行」が解決すると「①大統領の家族内のいざこざ ②新たな暗殺犯の登場と再び狙われる妻と娘 ③捜査官の職務剥奪の危機」に移行する。見事に1つが解決すると、別の問題が1つ発生している。

 

すごい発見だと思ってたんだけど、村上春樹川上未映子の『ミミズクは黄昏に飛び立つ』を読んでいたら、村上春樹が「3点があると物語は進むんだよね」的なことをおっしゃっていて。もしかするとよくある手法なのかもしれない。まあ、面白かったらいいよね。

 

ということで。どうやら、こんな感じに分析的なことを書くと、他のモロモロに影響するようなので、一時停止しようかなって感じ。やり方次第なのかもしれないけれど。24と村上春樹が同じことを指し示している、ってのはおもしろかったな。

 

<終わり>

 

 

 

 

 

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか?(4 of 5)

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか。そのメカニズムは、1)オモロクなければならぬという切迫感 2)オモロサを再現可能にするシステム的な担保、では。24が開始した2001年ごろ、映画界は超逆風の時代。新しいことが次々と起こるゲーム業界に若き才能が集まっていった。

 

才能の結集するゲーム界は次々と新しいアイディアのゲームを生み出した。玉石混淆……というほど酷くはなくて、メジャータイトルはしっかり面白かったし、マイナータイトルでの冒険もあり、マイナーでマニアックかもしれないけれど未来に向けた実験がなされていることも多かった。

 

一方で危機的状況に追いやられたのは映画界。タイタニックの大成功や、日本ではもののけ姫やら千と千尋のスマッシュヒットはあったけれども、総体としては非常に苦しい時期だった。

 

シネマコンプレックス化を進めるとか、ハードウェア的な改善も頑張った。映画館での興行収益だけで稼ぐのではなくて、VHSビデオ化やDVD化、レンタルでの収益、関連グッズ販売など、あらゆる工夫がされたと思う。特にDVDはプレステでDVDが見られた(よね?PS2からだっけ?)ので、映画界にとっての救いにもなっていた。逆境というのは人をタフにする。

 

逆境の打ち手の数々のなかで、一つのブレイクスルーがドラマの劇的なレベルアップだった。それまでのテレビシリーズといえば、ナイトライダーとかスタートレックとか、話はそれなりに面白いけれど、シナリオは1回完結。関連性はあるけれど、連続性はないのがふつう。

 

映像面でも、きっとそこまでお金をかけていなかったのだと思うのだけれど、それほど凝った撮影や編集はなされていなかった。映像面では映画がすごくて、テレビドラマシリーズは、まあドラマだよねクオリティ、だった。

 

そういうテレビドラマの常識を覆したのが、「24」だった。物語がリアルタイムで進行する、という意外性は入り口に過ぎない。24回で描かれる24時間の物語は、もちろん24回を通した一貫性があり、かつ毎回毎回「いやでもか」というぐらいのどんでん返しの連発。

 

映像面でも、当時はまだ珍しかった手持ちステディカムを多用した臨場感のある映像、リアルタイムに進行する複数シーンを並べて画面に表示する新しい手法(これはシリーズをおうごとに減っていったが)。デジタル時代ならではの色調の調整もバシバシ入っていた。

 

つまり、テレビドラマシリーズに、映画クオリティの映像撮影と編集技術を持ち込み、映画を超える24時間分の濃密なシナリオを持ち込んだのだ。映画の苦境はテレビドラマで解消しようという、切迫感と意欲に満ち溢れたクリエイティブが、世界に生まれた瞬間だった。

 

<続く>

 

 

 

 

 

 

 

 

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか?(3 of 5)

 

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか? 長らく謎であった。そのメカニズムは、1)オモロクなければならぬという切迫感 2)オモロサを再現可能にするシステム的な担保、にあるのではないかと愚考し始めた。1)に関し、24が開始した2001年ごろは、映画産業にとって超逆風の時代であった。

 

前回は全然話が進まず、24チームの新作『ジャック・ライアン』がおもしろいという話で、アフィリエイト狙いのブログみたいにベタベタリンクを貼って終わりになってしまった。アフィリエイトやってないので遠慮なくリンク踏んでください。

 

さて24。2001年ごろは映画界は超逆風の時代だった。映画以外の映像メディアがすっごく頑張っている時代だった。1995年にはウィンドウズ95が発売されて、マルチメディアがどうのこうのと騒がれていた。百科事典に動画が入ってたり、ゲームでもムービーが挿入されたりじゃんじゃんしていた頃。

 

次世代ゲーム機戦争」が起きていたのも20世紀の末ごろ。正確には調べないとわからないけど、初代プレステやセガサターンが発売されたのって1996年とか1997年ではなかったっけ。CGのクオリティが上がり、ポリゴン描画が当たり前になり、「ゲームが映画を超える」みたいなことが言われていた。

 

実際には、ゲームと映画が目指す方角は違っていった。映画とゲームの面白さは根本的に違うものだからだ。でも当時はそんなこと誰もわかっていなくて、コンピュータが表現する映像が、実写にどんどん近づいていくことで、(実写)映画とゲームの境目が曖昧になっていく、とのビジョンを受け入れていた。

 

ゲームと映画の境目の話は半分以上どうでも良くて、ポイントは、若くて元気で才能ある人々が、ゲーム業界に押し寄せたことにある。あの頃のゲーム業界の先頭を走っていた人たちは本当にクリエイティブだった。いや、今がクリエイティブじゃないということではなくて。当時はポリゴンCGをリアルタイムで動かすことも「新技術」だったし、実写クオリティのCGをレンダリングムービーで動かすことも「新技術」だった。何をやってもチャレンジで、その中で次々と新しいアイディアが実装されていった。

 

あれもこれも新しい、3ヶ月後半年後に出てくるものは、今とかなり違うものになっているというのは、とても刺激的なことだったし、そういう世界に冒険心ある若者が集まって、創造的な仕事をするようになるのは当然のこと。

 

そういう背景もあって、映画界は、若い才能も集まって来なければ、消費者も映画を以前ほど熱心に見てくれないという、危機的な状況に陥っていたのが2000年前後だった。

 

<続く>

 

 

 

 

 

 

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか?(2 of 5)

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか? 長らく謎であった。そのメカニズムは、1)オモロクなければならぬという切迫感 2)オモロサを再現可能にするシステム的な担保、にあるのではないかと愚考し始めた。1)に関し、24が開始した2001年ごろは、映画産業にとって超逆風の時代であった。

 

前回までのなぞトキシック……

mofq.hatenablog.com

 

前回の書いてから、週末に「ジャック・ライアン」を観始めて、なんとシーズン1を観終わってしまった。ここ1年ぐらい、理由はわかんないんだけど「映画が観られない病」にかかっていたことを思うと驚異的なスピード。まあ、面白かったということなんだろう。

 

 

ちなみに1話はこれ。

 

 

ジャック・ライアンを作ったのもこれまた「24」とかを撮ったチームらしい。本当かどうかよくわかんないけどさ。ワタクシとしては主人公を演じているジョン・クラシンスキーが好きで観ているようなもので。「13時間:ベンガジ秘密の兵士」で知ったんだけれど。

 

 

そういえばこの「ベンガジ」、自分でもどうかしているんじゃないかなと思うぐらい好きで、映画観られない病にかかっていたのに、3回ぐらい連続して通しで見たんじゃないかな……。2回目に観た主な理由は、登場人物の顔が似すぎていて、最後観終わったとき、一体誰がどうなったのかさっぱりわからんかった、から。

 

3回目は、何で観たんだろうね。マイケル・ベイのすっとシュッとした展開に感心したからやろね。観はじめて、止める所の無い映画って凄いなと思いますですよ。展開が単調という訳ではなく、起伏に富んでいるはずなんだけど、ちょっと今ここで止めてトイレ行こうかという間合いを潰してくる映画。凄いなあと。

 

止める所の無い映画といえばやっぱりナンバーワンは「きっと、うまくいく(3 idiots)」ですけどね。

 

きっと、うまくいく(字幕版)
 

 

個人的には、「止める所ないやんランキング」というのがあれば、全ての映画のなかで、ナンバーワンは「きっと、うまくいく」。何度見ても、酔っ払って寝てしまわない限り、3時間があっという間に過ぎる。

 

<続く>

 

 

 

 

 

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか?(1 of 5)

映画(ドラマ?)の24(twenty four)はどうしてオモロイのか? というのは長らく謎というかツラツラ考えてきていたことだった。今回はこれでいこう。

 

と、三幸園で肉野菜炒めを食べながら書こうと思って帰ってきたのだが。それにしても何でこのはてなブログは、毎回ログインし直さなあかんのかね? 「ログインし続ける」という(ニュアンスの)チェックボックスをチェックしているのに、だいたいきっかり24時間でログアウトされてしまっている。どうして? わたしの日頃の行いが悪いの? Safariのせい? マルチユーザ環境で使っていて、ユーザを切り替えるからなの? この謎について掘り下げてみたくなったぐらいだが……心を鬼にして24に戻る。

 

ドラマ『24』のオモロサは、

  • オモロクなければならぬという切迫感
  • オモロサを再現可能にするシステム的な担保

にあるのではないかと愚考する。

 

ところで『24』が登場した頃は、どういう時代だったのだろうか。初回放映日は、Wikipediaによると2001年11月06日。こういうドラマの企画がどれくらいリードタイムが必要なのかよくわからないけれど、仮に企画から放映まで1年かかるとすれば、企画したのは2000年の末。仮に2年かかるとすれば、1999年末、世紀末。

 

1999年や2000年が映画界(ドラマ界)でどういう時代だったか。なんとなくの記憶でしかなくて申し訳ないんだけれど、「スッゲー危機的状況」だった。

 

ざっくりした表で申し訳ないんだが、下を見てほしい。映画の興行収入(ワールドワイド)のトップ30に絞ったとき、各年に何本の映画がトップ30入りしたかを示している。左側の数字が西暦、右側の数字がトップ30に入った映画の本数。

 

1993, 1
1997, 1
1999, 1
2003, 1
2006, 1
2009, 1
2010, 2
2011, 3
2012, 3
2013, 2
2014, 1
2015, 5
2016, 4
2017, 4

 

これを見てわかるのは、2010年以降は複数の映画がトップ30入りしていることが多いが、2009年以前は1本もしくは0本ということ。特に、1990年代と2000年代が酷い。0本の年を数え上げると、

1990年代:90, 91, 92, 94, 95, 96, 97, 98 の8年

2000年代:00, 01, 02, 04, 05, 07, 08の7年

2010年代:今のところ一度もなし

 

2010年代以降、映画のビジネスが上手くなって、興行収益化が上手くなったと言えるかもしれないが、それにしたって1990年〜2005年ぐらいまでは映画界にとって「砂漠」みたいな時期だったことが想像できるではないか。分析対象をトップ30じゃなくて、トップ50とか100にして、グラフィカルに示してみるともっと色々なことがわかっておもしろそうな気もするが、ちょっとこのブログの趣旨と違って真面目になり過ぎるのでやめておく。

 

とにかく言いたいことは、24が登場した2000年前後は、映画界にとってすっごく厳しい時期だった、ということだ。

 

<続く>

 

データ出所

entamedata.web.fc2.com

野菜の、あの「うまい」って感じは何なんだろう?(3 of 3)

前回までのあらすじ

野菜がうまいというあの感じは何なのか、大いに疑問なのだ。思い出に残っているのは約20年前のトマト、去年から植えているベランダの九条ネギ。 

 

今のところの暫定的な結論は、野菜のうまさってのは「生命力に有り」。野菜の、生き物としての健康さや活力があって、それが「うまい」と感じるのではないか。

 

うまさ≒生命力だと考えると、いろいろなことが説明できるようになってくる。そもそも、棚に並んでいる野菜があって、その中でうまそうなものを選ぶわけだが、その時の基準も生命力なのではないか。仮に収穫時期が同じナスが並んでいるとして、生産者がちがうナスもあれば、生産者は同じだけど畑の場所が違ったり育ちが違うナスがある。その中から選ぶときに、テクニカルには野菜ごとにいろいろな判別基準があるだろう。

 

ナスだったら手に持ったときの密度(瑞々しさ)や肌つやなどが判断基準になるだろう。ダイコンだったら真っ直ぐな奴が良いとか、まあ野菜ごとに様々あると思うが、統一した基準といえば、生き物としての生命力と言ってよい。

 

もちろんさらに、新しい・古い、保存状態の良し悪しなどを加味して選ぶわけだけれど、これらも言うたら「生命力の具合」のことである。

 

それから京都の冬の野菜が美味しいのも、生命力を軸に考えれば良さそうだ。科学的な理屈上は、京都は盆地で冬寒く、外気温が冷たいと野菜は保身のために自らの糖度を上げる。小学校か中学校でやった、沸点上昇・凝固点降下のメカニズムだ。糖度が上がれば凝固点が下がり、野菜の身体が凍りにくくなる。身を守るために野菜は甘くなり、人間にとっては美味しくなる。化学的な理屈はそうだけど、要は「厳しい環境を乗り越えて生きたい」との意思と生命力が強い野菜がおいしいのだ。

 

トマトなんかも水分をあげ過ぎたりは良くないと聞く。アンデス原産の、乾燥した地域の植物だから、環境を厳しめに設定してあげたほうが、野菜自身の「生きたい」という力を引き出せて、美味しくなるという。やっぱりこれも生命力の問題ではないのか。

 

野菜の保管についてはあまり知見がまだ貯まってなくて、うまい解が見いだせていないのだけど、きっと生命力をいかに維持するかが重要なのだと思う。

 

収穫のタイミングも味や日持ちに影響すると聞いた。確か朝の収穫が良くて、野菜的には「陽も出てきたし、今日もいっちょやったろやないか」とテンション上がったところで収穫するのが良いという話だったはずだ。多分。

 

そう。けっきょく野菜のあの「うまい」って感じは、「生命力」に帰着するのだ。

 

だとすれば、次の疑問が、つい、湧いてくる。

 

野菜を食って「うまい!」と思っているのは命を感じているから。「いまいち!」と思っているのは命の弱まりを感じているのだとすれば。

 

ベジタリアンの人たちは、動物の命を奪うのが良くないからベジタリアンなのだと思うんだけど、野菜だって命を奪ってるし、その生命力をうまいと思って食べているわけだ。植物と動物の命の重みについては、あまり議論はしたくないんだけど(知らないけどどこかで散々されてそうじゃない)、もしかしてベジタリアンの人たちって、野菜の味がわからなかったりするのだろうか? うまい野菜ってのは生命力に満ち溢れているということだと結論できるなら、命を大切にするベジタリアンの人たちは、野菜のうまいまずいを積極的に評価できないのかねえ。

 

周囲にベジタリアンがいないので良くわからないけど、実に不思議だなあと思った次第。

 

<終わり>

野菜の、あの「うまい」って感じは何なんだろう?(2 of 3)

前回までのサマリー

野菜がうまいというあの感じは何なのか、大いに疑問であるのである。都会生まれ都会育ちで、自然とか畑とかに縁がなかった僕が、世界観が変わるほどビックリしたのは京都の郊外の畑のトマトだった。

 

トマトはトマトでおいしかった。あれ以来、あれほどのトマトは、ない。思い出補正が入っているとしても。トマトの話はトマトの話として、野菜のおいしさの共通項的なことは大体同じではないかと思うんだ。

 

繰り返しになるけど、要は、収穫された瞬間が一番おいしくて、刻一刻と味が損なわれていくということ。農業をやっている友だちなんかの話を聞くと面白くって、いつ収穫すると野菜のおいしさが続くか、ってのがあるんですってね。具体的にいつなのか忘れちゃって、この辺りが自分としても残念なんだけど、確か夕方ではなくて、朝一番に獲るとうまいという話だったかと。

 

なんか理屈もあったんだけど、すっかり忘れてしまった。野菜の生命力が一番高まっているときに収穫すると、その生命力が維持される的な話だったかとざっくり記憶。いい加減だなあ。

 

聞いたその話はいい加減なんだけど、生命力って大切な気がするわけ。野菜にとって。例えば去年からベランダのプランターで九条ネギを植えていて。ネギにはざっくり大きくわけて「葉ネギ」と「白ネギ」があって、白い茎を食べるのが白ネギ、青い葉を食べるのが葉ネギ。関東では葉ネギが育ちにくくて、土を盛り上げて茎を覆うので白ネギが育つのだと、辻留の辻嘉一さんが著書の中で何度も書いておられたけれども。

 

京都の人たちは葉ネギが大好きで、やっぱり九条ネギがないと話が始まらないぐらい好きなわけ。薬味にも使うし、うどんの具(薬味じゃなくて)なんかにもどしどし使うわけ。九条ネギがないと始まらない料理ってなんだろうなあ。ラーメンの上なんかにもたっぷり乗っていますわね。来来亭みたいなメジャーなところでもネギは九条ネギだし、「ますたに」や「ほそかわ」なんかでもネギは九条ネギですわ。

 

薬味じゃなくて料理として九条ネギじゃないと成り立たないのって何だろうなあ。いっぱいある(はずだ)けど思い出せないのが残念。産直市場で九条ネギの束を買ってきました。何に使うのか。ああ、鶏肉をオイスターソースで炒めて、野菜と絡めるなら九条ネギですわ。九条ネギをざく切りにして、そのほか人参とかセロリとか玉ねぎとかにんにくとか冷蔵庫に眠っている野菜を掘り起こしてザクっと切り、鉄鍋に敷き詰めてローストし、こんがりと焼けた頃にトマト缶のトマトを放り込んでくつくつと煮詰めると最高のトマトソースができあがる。こういうときにも九条ネギがほしいなあ。

 

斯様に京都の人々が愛してやまない九条ネギを去年からベランダのプランターで育ててみた。秋になってホームセンターに行くと(産直市場でもいいんだけど)九条ネギの苗が売っていて、これをプランターにざくざくと突き刺しておくと、あーら不思議、九条ネギが次々と育ってくる。どの部分を摘むかというのは決まりがあるわけだけど、それさえ間違えなければ、摘んでも摘んでもネギが生えてくる。

 

昨シーズンはついにほとんど他所で九条ネギを買わなかったんじゃないかというぐらいの勢いで次々生えてくる。しかもそれが美味しいの。摘んだらなかからとろーりと、液体、あれはなんなんだろうね、とろりとした液体があふれていて、まな板で刻んだらべちょべちょになるぐらいの瑞々しい九条ネギ。

 

生命力のピークをそのまま食卓に持ち込める幸せったら。ベランダのプランターで育てるなら九条ネギが超オススメなんだけれど。話を戻すと、その、九条ネギの、あるいは野菜の「うまい」って感じは、一体何なのかというのがよくわからないの。

 

<続く>