おさるの実験室

人生は実験だ

野菜の、あの「うまい」って感じは何なんだろう?(3 of 3)

前回までのあらすじ

野菜がうまいというあの感じは何なのか、大いに疑問なのだ。思い出に残っているのは約20年前のトマト、去年から植えているベランダの九条ネギ。 

 

今のところの暫定的な結論は、野菜のうまさってのは「生命力に有り」。野菜の、生き物としての健康さや活力があって、それが「うまい」と感じるのではないか。

 

うまさ≒生命力だと考えると、いろいろなことが説明できるようになってくる。そもそも、棚に並んでいる野菜があって、その中でうまそうなものを選ぶわけだが、その時の基準も生命力なのではないか。仮に収穫時期が同じナスが並んでいるとして、生産者がちがうナスもあれば、生産者は同じだけど畑の場所が違ったり育ちが違うナスがある。その中から選ぶときに、テクニカルには野菜ごとにいろいろな判別基準があるだろう。

 

ナスだったら手に持ったときの密度(瑞々しさ)や肌つやなどが判断基準になるだろう。ダイコンだったら真っ直ぐな奴が良いとか、まあ野菜ごとに様々あると思うが、統一した基準といえば、生き物としての生命力と言ってよい。

 

もちろんさらに、新しい・古い、保存状態の良し悪しなどを加味して選ぶわけだけれど、これらも言うたら「生命力の具合」のことである。

 

それから京都の冬の野菜が美味しいのも、生命力を軸に考えれば良さそうだ。科学的な理屈上は、京都は盆地で冬寒く、外気温が冷たいと野菜は保身のために自らの糖度を上げる。小学校か中学校でやった、沸点上昇・凝固点降下のメカニズムだ。糖度が上がれば凝固点が下がり、野菜の身体が凍りにくくなる。身を守るために野菜は甘くなり、人間にとっては美味しくなる。化学的な理屈はそうだけど、要は「厳しい環境を乗り越えて生きたい」との意思と生命力が強い野菜がおいしいのだ。

 

トマトなんかも水分をあげ過ぎたりは良くないと聞く。アンデス原産の、乾燥した地域の植物だから、環境を厳しめに設定してあげたほうが、野菜自身の「生きたい」という力を引き出せて、美味しくなるという。やっぱりこれも生命力の問題ではないのか。

 

野菜の保管についてはあまり知見がまだ貯まってなくて、うまい解が見いだせていないのだけど、きっと生命力をいかに維持するかが重要なのだと思う。

 

収穫のタイミングも味や日持ちに影響すると聞いた。確か朝の収穫が良くて、野菜的には「陽も出てきたし、今日もいっちょやったろやないか」とテンション上がったところで収穫するのが良いという話だったはずだ。多分。

 

そう。けっきょく野菜のあの「うまい」って感じは、「生命力」に帰着するのだ。

 

だとすれば、次の疑問が、つい、湧いてくる。

 

野菜を食って「うまい!」と思っているのは命を感じているから。「いまいち!」と思っているのは命の弱まりを感じているのだとすれば。

 

ベジタリアンの人たちは、動物の命を奪うのが良くないからベジタリアンなのだと思うんだけど、野菜だって命を奪ってるし、その生命力をうまいと思って食べているわけだ。植物と動物の命の重みについては、あまり議論はしたくないんだけど(知らないけどどこかで散々されてそうじゃない)、もしかしてベジタリアンの人たちって、野菜の味がわからなかったりするのだろうか? うまい野菜ってのは生命力に満ち溢れているということだと結論できるなら、命を大切にするベジタリアンの人たちは、野菜のうまいまずいを積極的に評価できないのかねえ。

 

周囲にベジタリアンがいないので良くわからないけど、実に不思議だなあと思った次第。

 

<終わり>